愛知一中時代の不木

 追憶 医学博士不木 小酒井不木 学林104号(創立50年記念号) 昭和4年 愛知県立第一中学校学友会 

 何といつても中学時代の思ひでが一ばんなつかしい。私も今年は四十になるから、私の生涯を二つに割ったその前半に中学時代が追ひやられたことになる。後半の二十年は浮世の波と戦ひ、病魔と闘つて、可なりに苦しい経験で満たされて居るが、前半は、ことに中学時代はその中まで父も生きて居たし、楽しい追憶の種となって居る。

 考へて見れば名古屋も随分変つたものである。四年間、大津町三丁目の某家の裏屋敷を借りて住つたが、あのあたりは、すっかり昔の俤を失ってしまった。夜の散歩に、大津町を真直に広小路まで出ると、それから直ちに右へまがつて、一度も南大津へは足を入れなかつたものである。何となく陰気で、数町進めば竹藪のやうなものがあって、とても散歩などして居れるところではなかった。それが今は、名古屋市の中心となって、最も繁華なところとなつてしまつた。

 東陽館が田園に近いところにあつて、日曜日などには植物採集にあのあたりに出かけたものである。たまには奮発して大池まで写生に来たことがあるが、確かに東南方を望んで、あの辺が御器所村だと教えられ、さてはあれが有名な沢庵漬の産地か、とても一生涯あのやうな片田舎へ寄りつくことはあるまい、などと思つて居たのに、今はその御器所に住む身となって、郊外らしい気分さへなくなつて行くのを悲しむ運命のもとに置かれてしまつた。

 さすがに第三師団だけは、昔の俤が濃厚に残つて居る。久屋御門をはひつたところにテニスコートがあつて、よくそこへ出かけたものである。初夏の頃、五時にはもう夕食をすまして、それから闇くなるまで其処でテニスをやるのが何よりの楽しみだった。新緑の頃の御濠端の景色は雄大であつた。友の一人はハーモニカのうまいのがあつて、軍歌などを合唱した気持は思ふだに快い。

 いふまでもなく、その頃母校は片端にあつた。七間町と呉服町との間に、あやふやげな黒板塀で囲まれて居たグラウンドの姿が、一ばん印象に鮮やかである。ホームベースのところに桜の老木があつたやうに記憶する。その老木の根本に腰を下して、選手たちの猛烈な練習を見て居る時の無心さ!その頃の野球選手は大てい私と同クラスで、中埜、伊藤、久保など、何処へ出しても恥ずかしくない人たちであつた。鵜飼、加藤の黄金時代から、一中は野球で天下に名をなしたものである。今も一中軍の試合が新聞に報ぜられるごとに勝敗如何にと気が揉めるのは、まことに当然のことである。

 そのグラウンドも、その老木も、又かの、呉服町と伊勢町との間に建てらえたロマネクス式(?)の白壁造りの校舎も、今はもう夢のやうに消えてしまつた。むかしの人は、浅茅ヶ原になつた都の跡を悲しんだが、なつかしかつた建物が、別の建物に変つて居るのも、可なりに悲しいものである。電車で通る度毎に中学時代のことが想ひ浮かんで来る。

 私は中学の一年二年のとき、作文が極めて不得意であつた。時々催された懸賞作文に一度も二十五等のうちに入つたことがなかつた。ほかの学科は相当な成績で、袖には金ズチを附けて居たが、算術と作文は苦手だつた。ある時父に向つてそのことを訴へると「お前は年が若いからだ。算術も作文も年をとれば上手になるものだ。」と、頗る楽天的な考えで、別に二つの学科に上達すべき方法を講じてはくれなかつた。三年の頃から、古今の名文を暗誦するとよいと先生に教へられて、ぼつぼつと書抜きをはじめたが、名文を暗誦してもやつぱり碌な文章は書けなかつた。四五年になって懸賞作文には入賞するやうになつたが、遂に満足な結果を得ず、そのまま今日に至つたのであるが、それには拘はらず今は売文を業として暮らさねばならぬので、つくづく運命の皮肉に苦笑せざるを得ない。

 中学時代には雑誌といふものを殆ど読んだことがなかつた。学校から禁じられて居たし、雑誌の数も極めて少なく、又、雑誌を買ふ余裕もなかつた。それだのに今は中学生向きの雑誌に筆を執ることが度々である。これもやはり皮肉な運命の一つであるといつてよい。

 四年級の第一学期に父を失つて、老年の義母と二人ぎりになつた私は、中学を卒業した後、田舎に引込まねばならぬ運命となりかけた。父は法科大学へはひれといふやうなことを言つて居たが、義母は父に死なれて急に寂しくなつたために、私を手許からはなしともなかつたのである。だから、中学を卒業するなり、上の学校へはやらぬと言ひ出した。

 すると、時の校長日比野先生は義母を口説いて、手許に置きたければ医者にならせるがよい、医科をやらせてはどうかと、再三勧めて下さつたけれども、義母はやつぱり気が進まなかつた。が、兎に角、補習科だけへは通ふことに頼んで、蟹江の自宅から汽車で往復したが、一月過ぎ二月暮れて六月になると、高等学校の出願期日が目前に迫つて来た。

 義母は頑強に我が意をとほさうとする。義理ある仲であるから、強ひて背くことはよくあるまいと親戚の人達は言つてくれる。私ももうあきらめようと決心して、それでも未練があつたので、六月十日即ち高等学校入学願書受附〆切の午前、校長室に日比野先生を訪ねると、先生は大へん心配して下さつて、とに角願書だけは出して置いたらどうだとすすめて下さつたが、まだ八高の出来なかつた前であるから、願書を出すとすれば三高より他はない。而も今日が〆切日であるから、願書は汽車で持つて行かねば間に合わない。さりとて、私は行くことが出来ぬ。

 ちやうどその時、同じクラスの川崎君(現在の北海道大学医学部の三輪博士)が、事情があつて出願が遅れて居て、その場に来合はせたので、日比野先生は川崎君に二人の願書を持つて汽車で京都へ行つて来るやう取り計らつて下さつた。念の為に携へて居た写真を添へ、入学受験料五円は日比野先生が出して下さつて、川崎君は、あたふた停車場へかけつけた。

 後できくと、川崎君が三高へ行つたときはもう事務室がしまつたあとであつた。弱り切つて校庭に立つて居ると、運よくも其処を一中出身の先輩が通り合せたので、その人に頼んで宿直の事務員に願書を受附けてもらつたのである。

 願書の一件はこれで危ふくすみ、それから試験だけを受けて見たいと願つてやつと許され、試験に及第すると、さすがに義母も我折つて、では高等学校だけやらせるといふ条件で三高を終り、大学へ入る際またまた一捫着あつて遂に大学を卒業したのであるが、卒業試験最中義母は脳溢血を起し、試験後二月で永眠したのは実に悲しかつた。

 いや思はずも私事に関して長談義をやつてしまつた。だが、かうした機会でなくては十分思ひ出につかることが出来ない。私は私にこの好機会でなくては十分思ひでにつかることが出来ない。私は、私にこの機会を与へて下さつた伊藤校長に感謝するのである。