ペンネーム「不木」関係資料

『叢書 新青年 小酒井不木』P307

大正13年(1924)「真夏の惨劇」以後の翻訳は、「小酒井不木」の名前で発表。

 

昭和2年10月14日付け後藤道政書状

 謹啓 昨夜は二十有余年を経過せる今日計らずも博識多才なる博士の尊顔に接しつとに造詣深き医学上のご高説を拝聴し無量の感に打たれ候 然るに汽車時間の都合にて遺憾ながら中途に割愛退場つかまつり候 次第悪しからずご了承なられたく候現代に於いて文豪之誉高き博士に対尾籠(おこ)がましき至りなれども感想の一端をお笑ひ草にもと存じたるまま左に

 かねてより思ひがけきや今夜しも富士の高根の月を見んとは

    諸人にももてはやさるる撫子も昔は野辺のものにありける

 希へても昔の徳を今も尚ほ慕う博士の心ゆかしも

 願わくは愚札御判読を賜り度候 怱々敬具

昭和二年十月十四日    後藤道政

医学博士

  小酒井光次殿

      追而雅号不木の起因御説明を乞ふ

 

昭和2年10月15日付け小酒井不木書簡

 拝復 一昨夜は誠にうれしく存じました。なおゆっくりと御話申し上げ度かったのを、つい残念致しました。本日はご丁聴なる御書と吟に接し恐縮に存じ上げます。どうか今後はよろしくお引立のほどを御願い致します、先夜お話ありました拙吟短冊に四季四枚今晩発送致しますから御笑留下されば幸甚に存じ上げます。

 先は右とりあえず御礼旁委細は後日拝眉の節に譲ります。               

               十月十五日    小酒井光次

            後藤先生

   二伸 小生の雅号は中学時代につけしものをそのまま用ひて居ります。はじめに頭角をあらわさず後に頭角をあらはすのが本当の人間だといふような言葉を漢文でよみまして、それをそのまま雅号にしたので御座います。不の字に頭をつけると木になります。不は頭をひきこめた貌 木は頭を出した形で御座います。お笑いまでに。

(両資料とも蟹江町歴史民俗資料館所蔵資料)

要約

 不木とは、中学時代に見つけたもの、初めに頭角を現さず、後に頭角を現すのが本当の人間だというような言葉を漢文で読んだ。それをそのまま雅号にした。

  「不」の字に頭を付けると「木」の字となる。「不」は頭を引き込めた貌(かたち)、木は頭を出した形である。

”大器晩成”の”器”という字を”木”にあて替えたものか?(伊藤和孝考察)

 

  「不木全集第15巻  名古屋見物」P476

  唐巣勘三郎 「このふぼくものめが」

          「父母苦ものなら、不孝もの」

 

 「歴史ウオッチング」  連城三紀彦 P19

   「『我は木石にあらず』という言葉がありますね。それで、本当は、不木石とでもつけたかったんじゃないかと思うんですが、あの人はたまたま『医者』つまり『医師』だったものですから、『医師にあらず、石にあらず』とよばれるのがこまるので、石という字をはぶいたのです。」

 

  「叢書 新青年 小酒井不木  小酒井不木論 血に啼く両価性の世界

  天瀬裕康」P264

  「大喀血を繰り返して、絶望の淵をさまよった大正10(1921)年は、31歳の不木にとって、転機の訪れた重要な年である。著述家として飛躍するための充電期だったとも考えられるし、大正9年までを光次の時代とすれば、10年以後は不木の時代として区分しうるが、それにしても”不木”という筆名は奇妙な味がする。はっきり言えば、わかりにくい。

  この意味を、<”木石にあらず”だろう>と言ったのは中島河太郎で、感覚的にはぴんとくる。眼科医にして探偵小説作家の椿八郎が司会した座談会(『医科芸術』昭48・2)の席上でのことで、不木の長男・望は、”不”は”木”の上が出ていないもので、これから木になろうという名前だーと説明している。このもとになっている不木自身の手紙は、『犯罪学雑誌』第2巻2号(昭4・5)に紹介されており、いささか駄洒落じみているが、一応は謙虚なペンネームだろう。

 

「犯罪文学研究 小酒井不木 小酒井不木ー横断する知性 長山靖生」

 P328~329

 ところで不木という筆名は、いったいどうゆう謂われがあるものなのだろうか。幸い雅号について、不木自身がはっきりとその由来を記している。叔父・桑原虎太郎宛書簡(大正10年12月25日)のなかで、不木は

   御たづねの小生雅号につき左に申上候。小生幼時より馬琴の小説を好み候が、  その「内隠れて後顕はるるは君子なり」又「尺蠖の伸びんとするや先づ其の身を屈す」という言葉に共鳴し、その言葉を修養の基と致し候が、この意味を雅号にあらはさんと考へしのが不木の二字に候。即ち不の字は木の字の頭を引きこめた形、不の字に頭をつけると木のと相成るべくこれによって、始めは頭をなるべく引きこめ、後頭をもちあげるやうにすべきこと、即ち隠れて後あらはるるという意味の二字を選び候次第に候。(中略)よく人は「木石にあらず」という言葉から取りたるものならむと言ひくれ候が、其の真実の意は以上の如くに候。

 と述べている。謙譲と自負とをふたつながらに示す<不木>の語義は、同時に直感や先天性よりも修養と成熟をこそ希求する彼の心性を示すものであるといえよう。