不木をめぐる人物達

恩師 日比野寛

「日比野寛」 昭和34年 愛知一中会 日比野寛刊行会 P76~P78 体育への熱意  小酒井不木

 後年、医博となり、不木と号して、得意の文才を駆って、探偵推理小説に驕名を馳せた不木小酒井光次は、明治40年に愛知一中を卒業している。在学中を通じて学業は抜群だった。常に試験課題の答案には、名論卓説をもって衆に擢ん出ていた。この課題は、後に「即席課題」または「気根培養試験」といって、国語、漢文、数学に学級とは係りなく課題を出して、生徒の実力を試すことを目的とした。日比野の独特の教育方針の一つで、成績優秀なものには、賞状を与えて表彰したものである。

 小酒井は、そんな風であったから、いつも活気に乏しく、蒼白い顔をして机にかじりつく部類であった。日比野は、小酒井の陰気な姿を気にかけ、なんとかして、陽気な性質にたたき直してやろうと、或日彼を校長室に呼びつけ、「健康のため、野球部にはいれ、」と命令した。内気な小酒井は、校長の命令を断ることができず、心ならずも野球部員として名を連ねることになったが、遣る気にならんのか、生来無器用なのか、どのポジションをやらせてもてんでものにならなかった。その頃の愛知一中野球部は、第二黄金時代に入っていた時であったので、日比野は、頭の良い小酒井にキャプテンをやらせることにした。

 日比野の体育は、およそこのようなものであった。

 小酒井不木については、尚、次のようなこともあった。

 小酒井が、愛知一中の四年級になった一学期に、彼は父を喪った。そのため、老年の義母との二人暮しになった。彼の父は、彼を法科に進学させるつもりであったが、その死後、義母はほど遠い都へ彼を手放すことを心配して、どうしても進学を許さなかった。当時は名古屋に高等学校のなかった時であるから、中学卒業後、高等学校に進むために旅へ出ることを極端に嫌った義母は、小酒井の向学心を挫くことにつとめた。

 これを耳にした、日比野は、義母である人に説いて「息子を手許から放したくなければ、医科に進ませたらどうか、医専ならこの地にあるのだから他郷へ出す心配もない。」と勧めてみたが、小酒井自身が、大学への進学を熱望していたため、義母の進学措止の気持ちには一向影響されるところがなかった。高等学校受験手続きの期日は次第に迫って来るので、小酒井は、とうとういたたまれず、学校へ行って、校長を訪ね、己の決意の次第を語った。そのとき、日比野は、「ともかく、願書だけは出しておかなくてはいかぬ。」といって直ちに入学願書を書かせたが、その日が願書の締切日に当っていた。

 名古屋から、最も近い高等学校は当時三高あるのみであったので、願書を郵便で送ってはどうしても間に会わない。どうしたものかと途方にくれていたとき、幸いにも、矢張り同じ様な理由で出願が遅れていた、同級の友人(後に北海道大学教授になった三輪誠)が来合わせたので日比野の計らいで、小酒井の願書も持って京都まで行って貰うことにした。

 小酒井は、後年、肺結核に冒されたが、医家の立場から、これを克服することに心血をそそいで、「闘病術」という新語を作り、また一書を著わした。生を守り命を保つには、勝たねばやまぬ強い意志が必要で、感情から意志を沮喪させないためには、摂生、養生、自疆、治療につねに闘病の精神を持たねばならぬとして、自ら実践大いに効果を挙げ、一時の重態も持ち直し、その間、自宅に研究室を設けて、後進のために文字通り身をもって医学上の研究指導に専念し、いくつかの研究論文の発表をさせることにより、斯界に益するころも大きく認められていた。彼の不屈の精神こそは、往年日比野から親しく受けた、不断の精神教育のしからしめるところであったにちがいない。

 

同上書 P105 愛知一中の運動部 野球部

 日比野が選手は運動さえやれば良いという主義の人だと考えるものがあれば誤りで、常に選手の学力の低下を心配して、各年級の一番か二番の優等生を野球部マネジャーに任命し、選手の勉強の杖としたことを考えるならばよくわかることである。小酒井不木、三宅儀太郎、杉田襄、福田憲三、服部健三、大木喬之助、小島憲、小沢章一等、歴代のマネジャーは皆素晴らしい優等生で日比野は必ず優等生でなければマネジャーに任命しなかった。優等生なるが故にマネジャーに任じ、野球の練習をさせた。マネジャーのいいつけには下級生は勿論同級のの選手もよく従った。


新青年編集長 森下雨村

別冊幻影城3月号 小酒井不木 森下雨村 小酒井氏の思い出 P310~P313 昭和53年3月 幻影城

   一

 四月二日、小酒井氏の訃に接して、名古屋へ急ぐ汽車の中を、私は「学者気質」と「病間随筆」を読みつづけていた。「学者気質」は故人と私を結びつけた思い出の書であり、「病間随筆」はその頃の小酒井氏の内的な心持が最もよく現れている随筆で、私としては何よりも個人を偲ぶよき思い出であったからである。

「学者気質」が東京日日新聞へ掲載されたのは大正十年九月であった。どんな機縁から人と人とは結びつけられるものか分からない。小酒井という珍しい名が目について読みはじめた私は、先ずその博識に興味を覚え、翌日を待ち兼ねる気持ちになっている矢先、第三回「探偵小説」の表題に一層の興味を感じて一読すると、どうしてその方面にもなかなかの通人であることに驚かされ、今度は小酒井という人がどうした人であるか、新聞社について聞き合わせてみたいとさえ思い出した。その折柄、知人井上重喜君(医博)に会ったので、訊ねてみると専攻は違うが法医学教室に暫く一緒にいたから知見の間柄である、専門は病理学であるが博識稀に見る篤学の士で永井博士の秘蔵弟子であるということであるということであった。

 私は早速書を送って『新青年』への寄稿を依頼した。当時の『新青年』は創刊僅かに二年で、大して世間にも認められもしない青年雑誌であった。従って東北大学の教授である小酒井博士が私の依頼を快く諾いてくれるか如何かという疑念は十分あった。まだ見ぬ人を心に描く経験は誰しも持つであろうが、文章に現れたその博識、大学の教授、博士というような先人の概念に捉われて、床見の人小酒井氏を頭に描くとき、私がそうした疑念を抱いたことは当然であった。

 が、結果は寧ろ意外であった。懇切を極めた手紙がきたのである。自分は青年が好き、青年雑誌が好き、特に探偵小説は大いに好きである。喜んで執筆をしよう。ただ、目下身体の具合が思わしくないから暫く待って欲しいと云う丁重な手紙であった。編輯者がこういう手紙を受け取った時の喜びは、経験のない人にはわかるまいと思う。ましてその手紙がいかにも謙譲で、親しみに充ち、互いに相識るようになったことを喜んでいる先方の気持が目に見るようであったのが、私にとってはどんなに嬉しかったか。

 ここに二人の文通が始まり、私は健康回復の早からんことを祈りつつ原稿の催促を繰返した。後になって思うと、事態が分からなかったとは云え心なきことをしたもので、当時、十月二十六日に小酒井氏は帰朝以来初めての大喀血をして病気に絶対の安静を求めていたのである。

 病が大分良くなったと云って、最初に筆を執った原稿は大正十一年新春の増刊に出た「科学的研究と探偵小説」である。これは小酒井氏が専門外の文学、特に探偵小説の方面に顔出しするに当り、先ず自己の立場を明らかにしたもので、今になって考えてみると、まことに意義深いものである。

 その中には、元来探偵小説が好きであったことから、海外留学中、紐育(ニューヨーク)ではハドソン河畔を逍遥してポーの作品を偲び、倫敦(ロンドン)へいってはベーカー街を訪うてドイルが描いた舞台を想い、巴里(パリ)ではルコックの辿った道を辿ってガボリオーを懐かしんだというようなことや、探偵作家のもつ推理、観察の力は科学の研究にも必要であることを述べ、科学的研究と探偵小説との間には緊切な関係があることを力説している。

 話が前後するが、小酒井氏が闘病の一助として文筆に親しむようになってからは、その友人や知己の間には、氏が医学の畑から足を洗ったように考えた人も少なくなかったらしい。現に同窓で親友である谷口博士なども一時は裏切られような気がしたと語っていられたほどである。しかし、それは全然間違いであって、小酒井氏は健康の回復を待って数年前から専門の研究に着手し学界のために大きな仕事をしていたのであった。研究の内容は無論我々に分かろう筈はないが、谷口、古畑博士などの話によると、現在の医学の知識からすると殆ど空想に近いほど困難、且つ大きな研究で、そうしたことを思い立ったのも全く超人間的なあの推理と想像力のしからしむことろで、到底普通の科学者の企て及ぶところではないとのことであった。この事実は、小酒井氏が自己の所説を実現したもので、そういう意味からしても一人二役の仕事をした故人の業績を辿る上に、「科学的研究と探偵小説」の一文は極めて深い意味を持つものである。

   二

 それからの約二年間は犯罪事実の研究や、「殺人論」、「毒及び毒殺の研究」、或いはドゥゼの翻訳等、専ら犯罪と犯罪文学の研究に費やされた。古典物は大概持っているが、新しいものを読みたいとの事で、フレッチャーのものなどを送ってあげたり、友朋堂文庫を買って送ったりしたのはその間のことで、三日にあげず手紙のやりとりをしたのもその時分である。その当時は文壇にも余り知己はなかったであろうし、発表も『新青年』のみであったから、自然文通も繁く、まるで兄弟のような隔てない交際であった。

 大正十二年の二月、小酒井氏は義妹を喪い、同じ年の五月、私は母を喪った。肉親の少ない小酒井氏は義妹さんの病気を気遣って随分と看病につとめたらしい。栄太樓の甘納豆を食わしてやりたいからとの手紙で、送って上げると、当の病人が書きでもしたような感謝の手紙をもらったこともあった。間もなく、母の病気で帰国した私が、病名不明の症状を書いて送ると、尿毒症であろうと云って手当まで細かに認めた手紙をもらった時、恰度高知から招いた名医が同じ診断をして、その名察と親情に感謝もしたことであった。

 情の濃やかな親切な人であったということは、誰しも一致するところであるが、こうした思い出をもっている私には、時にその点が深く沁みこんでいる。友情に厚い人であったことは、江戸川君が一時創作に悩んだ頃、蔭になり日向になりして同君を激励し鞭撻した一事によっても窺える。このことは江戸川君も書いているが、私への手紙にも幾十度江戸川君のことを書いて来たかわからない。大衆文芸の向上が最大の眼目ではあったろうが、成人が中心となってこしらえた耽綺社も、その成立の動機の一部は江戸川君を激励するにあったのではないかと私自身は考えたくらいである。

 そうした話は別として、犯罪並びに犯罪文学の研究が一段落を告げ、ドゥゼの翻訳も二篇を終りかけた頃から、私は創作を慫慂した。それはいつか会った時、日本の探偵文学のためにお互いに一歩進めて創作を発表しようではないかというような話が何方からともなく出たからであった。

 それに対して、小酒井氏からの返事は、きっと書く、しかし長いも のはまだ書けないから、自分の好きなルヴェルのような短いものを書いてみたい。その中に送るから批評してくれという相変わらず謙遜な態度であった。それも今から考えると『苦楽』へ「呪われた家」を発表したので、私としてはかなりやきもちした気持ちで催促をしたものらしい。しかし、それは私が無理であった。というのは、研究と翻訳の方面であれだけの仕事をした後である。どんなに自信があるとしても創作となるとそう容易に筆を執れるものではあるまい。その点から考えると、「呪われた家」は一つの瀬踏みである。その後の約半歳を作家として真実に自分にとって進むべき途を準備していたように思われる。そして大正十四年八月の『新青年』へ初めて発表されたのが処女作「按摩」と「虚実の証拠」であった。ついで「遺伝」、「手術」を発表し、好評と自信に勇気づいて、それからは幾多の各篇が続々と出来たのであった。それらの作品中、もっとも傑たのは世評で一致するところ「恋愛曲線」で、これは作者自身も会心の作と認めていたであろう。後に短篇を集めて単行本とする場合、題名を相談して来た時、「恋愛曲線」ではと云ってやると、即座にそう決めたものである。

 当時の作品は、自分で云ったとおり明らかにルヴェルの影響を受けたもので、形式から云っても、内容から見ても、ルヴェルの「青蠅」や「夜の荷馬車」を彷彿とさせる珠玉的短篇が多かった。元来ルヴェルには非常に共鳴していたもので、最後まで仕事をし読書に親しんでいた研究室の書斎の書架、それも安楽椅子の傍には田中早苗君の訳になるルヴェルの短篇集が置いてあったほどで、ルヴェルは恐らく小酒井君の愛読書の一つであったと思う。

 愛読書と云えば、故人の最も愛読した小説は「罪と罰」で、これは「私のバイブルである」とまで云っている。探偵小説の方面では古いものは別として、近代のものはフレッチャーが一等好きであった。しかし、同じく好きと云ってもルヴェルとフレッチャーに対する興味は全然別であったらしい。ルヴェルには共鳴もし惹きつけられもした方で、フレッチャーは探偵小説としての立場から、その作風に同感したという様なわけであったと思う。

 自分で翻訳までしていながら、ドゥゼのことは余り口にしなかった。フレッチャーの作については私と会う度に話をしたものである。探偵小説はやはり本格物でなければなあぬ。それもフレッチャーの行き方である。自分もいずれああいうものを書いてみたい。同時に「探偵小説本質論」を執筆して『新青年』誌上に発表したいが、それには古いものから今一度読み直さなければならないので、来年頃まで待って欲しいーこれに昨年の夏、会ったときの話であった。

 約束を必ず果す人であったのに、今少し生きていてくれたらと、このことだけでも惜しまれてならぬ。死を前にして「三日生きたい。出来れば三年」と云ったそうだが、それは決して単なる生への執着ではなく、やりかけていた専門の大研究に多少なり目鼻をつけたか、或いはそれについて誰かに後事を託したかったかであろう。探偵文学の方は余技であったとしても、死がああも突然に来なかったら、私や江戸川君には何かと話したいことが、やはりあったではあろうと思うと堪らなく残念な気がせられる。

 まだいくらも書きたいことがあるが、近頃の事は他の人も書くであろう。また他の機会にゆっくり思い出を語る機会もあろうからこの辺で筆を止めておく。

○大正12年1月16日付け

 森下雨村書簡

 

 過日ご注文のお品、給仕を派遣して買ひ集めさした侭お送りしたので、お気に召したかどうかと心配しています。仰だったら買ひなおしてお送りしましょうか。無責任なことをするとあとで気がとがめます。

 

 何卒ご遠慮なく仰有ってください。今後のご用事とも。別便鈴木いふ人の犯罪論と探偵雑誌をお送りします。古い出版で無論古本ですが、大分久らく本箱に曝してあったので買ったばっかりの古本とはちがいます。何しろ古いものですが、部分的にご参考になるかと思ってお送りします。 

 探偵雑誌は例により好くなっていますが、これは電車の中と寝床でよむことにしていますので、悪しからず。 

 wigmoreという米国の犯罪学者のthe Principles of Judicial Proofという本を昨日丸善で買って来ました。千何百頁の大著で犯罪の証跡に関する理論とその実例を無暗に沢山列挙した本です。家内がとうとう眞物になったと云って笑っていますが、事実の列挙だけに理論は皆目解りませんが、面白いと思って読んでいます。今少し読んでみて殺人論の参考になるようだったら、お送りしましょう。 

 夜の冒険を待ち兼ねています。都合により四月号から掲載してはとも思ってゐます。今度から連載物は少し読み応へのするように沢山頁をとったらとも考えてゐます。それから江戸川君二銭銅貨と今一篇四月号へ載せようかと思っています。お頼みしておきました御批評何枚でもよろしくお書きくださいまし。四月号は創作探偵小説号と銘を打つことにしました。議論に亘ってもよろしく創作ものの初めへ「二銭銅貨」紹介旁々の御感想五六頁もお書き下されば大変に御結構だと思います。(これは甚だ勝手なお願いですが)。 

 御令閨(れいけい)様に初めての御挨拶をお伝えくださいまし。    

 

              森下岩太郎 

                      一月十八日

 

 捕物帳は断念しました。持ってそうな友人二三に聞合してみましたが、誰も持っていませんから。

 

 小酒井光次様

 

*書簡は個人蔵

 

探偵小説家 江戸川乱歩

不木生 二銭銅貨を読む 新青年大正13年4月号 博文館 大正12年

 『二銭銅貨』の原稿を一読して一唱三嘆ーいや、誰も傍らには居なかったら一唱一嘆だったかー早速、『近頃にない面白い探偵小説でした』と森下さんに書を送ったら『それに就いての感想を』を書かないかとの、きつい言ひ附け、文芸批評と自分の法名ばかりは、臍の緒切ってからまだ書いたことが御座りませぬからと、一応御座りませぬからと一応御断りしようと思ったところ、オイチー夫人のサ―・バー・ブルークネーではないが、持って生まれた悪戯気分がむらむらと頭を持ち上げて、大胆にもかうして御茶を濁すことになったのである。誠に仏国革命政府の眼をくらまして、貴族を盗み出す以上に冒険な仕事であるがせめて地下鉄(サブウェー)・サムの『新弟子』位の腕にあやかりたいと思ってはみても、いや、それはやっぱり強慾といふもの。

 三度の飯を四度食べても、毎日一度は探偵小説を読まねば気が済まぬという自分に、『二銭銅貨』のやうな優れた作を見せて下さった森下さんは、その功徳だけでも兜率天に生まれたまふこと疑なし。碌に読めもしない横文字を辿って。大分興味を殺がれながら、尚ほ且外国の探偵小説をあさって居たのも、実は日本にこれといふ探偵小説が無かったからである。ところが『二銭銅貨』を読むに至って自分は驚いた。『二銭銅貨』の内容にまんまと一杯喰されて多大の愉快を感じたと同じ程度に日本にも外国の知名の作家の塁を摩すべき探偵小説家があることに、自分は限り無い喜びを感じたのである。

『一斑を以って全豹を知る』といふことは総ての場合に適用すべき言ではないが、かうして見ると日本にも隠れたる立派な作家があることがわかった。否、まだ外にもあるに違ひないといふことが推定された。それ故、『新青年』の編輯者が、かかる隠れる作家を明るみへ出さうと企てられたことに自分は満腔の賛意を表するのである。

 芸術と鑑賞の批評ーなどと鹿爪らしく言ふのも鳥滸がましいが、優れたる探偵小説なるものは誰が読んでも面白いものでなくてはならない。そして探偵小説なるものは描写の技巧の優れたるよりも筋(プロット)の優れたものを上乗とすべきであろうと自分は思ふ。それ故覚束ない外国語で読んでも、比較的完全にその趣向を味ふことが出来るのである。劇とか詩とかは、言葉そのものから、しつくり味ってかからねばならぬのであるが探偵小説には、はとひ、今後馬場氏が適切に説破せられたやうに、人情や風景の描写が多く入って来ても、興味の焦点となるものはやはりその筋書ではなくてはならないと思ふ。この点があればこそかうして自分が如きの素人が、探偵小説に嘴を入れ得るのである。

 探偵小説の面白味は言う迄もなく、謎や秘密がだんだん解けていくことと、事件が意表外な結末を来す点にある。而もその事件の解決とか、発展とかが、必ず自然的に(ナチュラル)でなくてはならない。換言すれば偶然的、超自然的又は人工的であることを許さない。其処に作者の大いなる技巧を必要とする。即ちジニアスを要するものである。如何によい題材を得ても、また如何に自然科学に精進しても、単にそれだけでは駄目である而も題材には限りがあり、又科学的新知識にも、進歩の頂点がある。実際、近頃の探偵小説を見るに大抵どれもこれも題材がよく似て居って、これはと思ふ新奇な材料は少ないのである。それ故今後の探偵小説家はどうしても筋の選び方、材料の取り扱ひ方に新機軸を出すより外はないであろう。

 こんな理屈を並べると何だか擽つたいやうな気持ちになるから、柄にないことはまあこれ位にして、さて『二銭銅貨』はどの点が優れて居るかといふに、読者の既に読まれた如く、あの巧妙(インジニアス)な暗号により、只管(ひたすら)に読者お心を奪って他を顧みる遑(いとま)をあらしめず、最後に至ってまんまと背負投を食はす所にある。丁度ルブランの『アルセーヌ・リュパンの捕縛』を読んだ気持である。銅貨のトリックが外国の探偵小説からヒントを得たのであるかもしれぬが、点字と六字の名句(みょうごう)とを結び付けた手腕は敬服の外ない。この点は地下のポオも恐らく三舎を避くるであろう。由来日本語は表はす暗号には巧妙なものが少なく、この暗号は正に従来作られた暗号中の白眉と言ってよから『御冗談』となるといふ点が少し『偶然』でないかと思はれるが、これはあまりにも虫のいい証文であろう。

 何(いづ)れにしてもこの作は近来の傑作である。暗号を中心とした探偵小説といへば、先づポオの『黄金虫』、ドイル『舞踏人形』、ルブランの『うつろの針』それからカロリン・ウェルス『彫んだ暗号(セ・グレーヴン・クリプトグラム』などを想ひ起すが、この作はそれ等の件に優るとも劣って居ない。また暗号そのものから言ってもたしかに優れて居ると思ふ。リーヴは、なるべく奇抜な材料を得んと心懸けて居る作家である。が、彼が『アドヴェンチュアレス』の中で中(うち)に入れて居る暗号は極めて変凡なものである。ル・キューの『暗号6』ではその解式を示さず、また同じ作者の『不吉な十三(フェータル・サチーン)の一篇中の暗号も驚くに足らない。自分は『二銭銅貨』の作者が益(ますます)自重して、多くの立派な作品を提供せられんことを切望し、それと同時にこの作が他の多くの立派な探偵小説家の輩出する導火線とならん事を祈るのである。

「不木全集第12巻 身辺雑記」P217~P220

 「はじめて江戸川氏の作品に接したのは、大正11年の夏頃ではなかったかと思う。『新青年』の森下氏から同君の『二銭銅貨』と『一枚の切符』を送って来て、日本にもこれほどの探偵小説が生まれるようになったから、是非読んで下さいとの事であった。早速『二銭銅貨』を読んだところが、すっかり感心してしまって、森下氏に向かって、自分の貧弱なヴォカブラリーを傾けつくして、賛辞を送ったのであった。そうして『二銭銅貨』が発表されたときには、私の感想も共に発表された。これが縁で江戸川氏と文通することになった。時々長い手紙を寄せて同氏は私を喜ばせてくれた。その後ポツリポツリ氏の作が『新青年』に発表されるごとに、私はむさぼり読んで、江戸川党となった。関東大震災の後…私は、江戸川氏にむかって、探偵小説家としてたってはどうかということを勧めた。…『心理試験』を読んで、私は、何というか、すっかりまいってしまった。頭が下がった。もうはや、探偵小説家として立てるも立てぬもないのだ。海外の有名な探偵小説家だってこれくらい書ける人はまづいないのだ。…私は、大いに待った。十四年の一月、とうとうやって来た。初対面の挨拶に頭の毛のうすいのを気にした言葉があった。私たちは大いに語った。江戸川氏は、これから書こうとする小説のブロットを語った。」

 「同氏はこのとき、頻りに私に、創作に筆をそめるようにすすめた。私も、創作をして見ようかという心が、少しばかり動いて居たときであるから、とうとう小説を書くようになったのである。『女性』四月号が出た『呪われた家』がいはば私の処女作であった。」

「ところが江戸川氏は、いつ逢っても、もう探偵小説は下火になりはしないか、行き詰まりではないかということを口にしている。然し私は、いつでもそれを打ち消して楽観的な見方をした。同氏のように、いはば精巧極まる作品を生産する人が、そのような憂いを抱くのは、当然のことであり、私のような、無頓着な、荒削りの作品を生産するものが楽観的態度をとることは、当然のことである。然し、江戸川氏は、そういいながらも、先から先へと立派な作品を生産して行く。この点は、天才に共通なところであって、私は、氏が、行き詰まったとか、書けないとか言っても、もはやちっとも心配しないのである。探偵小説ことに長編探偵小説はこれからである。すでに『一寸法師』に於いて、本格小説の手腕を鮮やかに見せた氏は、きっと、次から次へと、大作を発表して、私を喜ばせてくれることを信じてやまない。」 

 

 ○大正12年7月3日付け

 小酒井不木書簡

  御手紙うれしく拝見しました。ご親切な御言葉を切に感謝します。森下さんから「二銭銅貨」の原稿を見せて頂いたときは、驚嘆するよりも、日本にもかうした作家があるかと、無限の喜びを感じたのでした。私の眼に誤りがあるかもしれませぬけれど、あなたには磨けば愈光る尊いジニアスのあることを認めて居ります。どうか益々つとめて下さい。「創作のために費やさるる時間の少ない」といふことは如何にも残念ですが、あなたのやうな見方で人生を観察さるる方は「無味乾燥」な生活のうちにも題材は得られませうから、怠らず心懸け下さるやう御願ひします。

 

  私はドストエフスキーが大好きですが「カラマゾフ」や「罪と罰」にはやはりあなたの仰しやるやうに探偵小説的色彩の多いために、引きつけられます。語学などは仰せの通り暗号を読むと同じ気分になって始めて興味が湧いて来ます、私は高等学校時代に梵語をかじって見ましたが、限りない面白味を感じました。一時は辞書のない言語で書かれた記録を読む学問(広い意味の考古学)を研究して見やうかとさへ思ひましたがたうとう医学を修めるやうになってしまひました。然し幸いに動物実験といふ楽しい探偵的の仕事をするやうになってから、多少なりとも好奇心を満足させられましたが今はかうして静養して居る身の実験室から遠ざからねばならぬやうになりましたから、探偵小説や犯罪学をかじってせめてもの慰安として居るような訳です。どうかこれからどしどし立派な作品を生産して私を喜ばせてくださいませ。

 

 「恐ろしき錯誤」発表の日は待ちかねます。「赤い部屋」は出来上がりましたら是非拝見したいものです。今後はこれをご縁によろしくご交際を御願ひします。

  とりあへずご返事迄。

           七月三日午後

                   小酒井光次

   平井大兄

 

○大正14年2月12日

 小酒井不木書簡

 御手紙拝見しました。御親父様の御病気レントゲンだとて決して保証は出来ぬのですから先日も申しましたとほり、只今の治療を父上様の御気向くだけさせてあげて下さるのが、最もよいことと思ひます。そして出来るだけ御心を慰めてあげて下さい。それより外に何とも致し方がないと思ひます。

 

 さて「苦楽」の投稿は申すまでもなく翻案ものでほんのその場かぎりの読み物に過ぎません。ところが先日あなたに逢ひ又かねて「女性」の切なる依頼があったので、「呪われの家」といふ五十枚程の純創作を四月号(一ヶ月後即ち三月中旬発表)に寄せて置きました。碌なものではありませんが、是非読んで下さって御批評を仰ぎたいと思います。

 

 よく日本では探偵小説を書くに家の構造が向かぬとか何とかいふ人がありますが、日本人の生活の中からもいくらも探偵小説の種は見つかるぞといふことを示すため・・・といっては少し誇張ですが、兎に角理論よりも作品で示した方がよいと考へて作って見たのです。一週間ばかりの間に考へて書き上げたので随分缺点が多いのですが、「女性」でも相当な取り扱ひをしてられるようで探偵小説のために多少の気焔を挙げてたいと思って居ります。兎に角これから私もあなたの後についてーいやついて行けぬかもしれませんが、創作をボツボツ発表したいと思います。

 まだこのことは森下さんにも申上げなかったことで、いづれ近日森下さんにも委しく書くつもりで居ります。

 どうか今後も出来るだけ相扶けて下さって、日本に於ける探偵小説を開拓したひと思ひます。・・・先日申上げたとほり作品が過剰に御出来になったら、いつでも申越してください。及ぶ限りのことを致しますから。

 

 各とりあへずご返事迄

     二月十二日    光次

          平井大兄

*両書簡とも個人蔵

 

耽綺社の盟友 国枝史郎

  「不木全集第15巻 読後感」P389~P392

 「初めて私が国枝史郎氏の作品に接したのは今から五年ほど前である。その頃私はパリで再発した宿痾(しゅくあ)を郷里へ持ち帰って、すっと寝床の上にいたが、講談倶楽部に連載された氏の作『愛の十字架』は次の号が待たれたほど面白かった。…その後だんだん、私の健康が恢復して、いわゆる『新講談』をしきりに読むようになってから、私はサンデー毎日の特別号などに発表された氏の作品にだんだん引きつけられたが、遂に『大鵬のゆくへ』を読むに至って、すっかり魅せられてしまい、国枝崇拝者の一人となった。その後、氏の作品は、手の及ぶ限り眼をとおさずには置けないことになったのである。」

「何でも、昨年の五六月頃、国枝氏が名古屋に居られることを聞いて、一度お目にかかりたいものだと思っていると、幸いにも七月の下旬、ブラトン社の川口氏の紹介で名古屋ホテルで会談すること翻載されたイー・ドニ・ムニエの作品のことを言い出すと、意外にも氏の口から、あれは翻訳ではなく、舞台を外国に取って物した創作を、翻訳の形で発表したのに過ぎないと聞いてびっくりしてしまった。そうして私は自分の探偵眼の鈍かったことを悲しむと同時に、探偵小説においては氏が私たちの先輩であることを知って一層尊敬の念を増し、なお、それらの作品において、心ゆくまでに出し得た氏の才筆と異国情調を羨んだ。」

「それ以後、私は氏と交際を願って今日に及んで居るのである。そうして、僅かに一年たらずの間に私はどれだけ文芸に関する薫陶をうけたか知らない。私は昨年の春から、はじめて探偵小説の創作を試みるようになったが、最初のうちは氏に大へん叱られた。しかしそのうちにまぐれ当たりで一つ二つ多少見るべき?作品を書いた時、氏は激賞して下さった。最初に叱られて居ただけ、私の喜びは大きかった。爾来私は氏の批評を聞くことを唯一の楽しみとし、又、唯一の指針として創作に筆を染めて居るのであって、もし今後私が作品らしい作品を生産することが出来たならば、それは全く氏のお陰であるといってよい。」

 「文人としての国枝氏は、その潔癖さに徹底しておられる。だから氏は文章を非常に苦心される。氏の文章が音楽的であること…たえず『進化』ということを念頭において居られる。文章に対して潔癖を持つ氏は作品に対しても同様であって…ある人が氏の探偵小説『銀三十枚』に感心してかかる優れた作品を生むのは氏の人格の然らしめるところであろうといったのは私は大いに賛成である。全く『文は人なり』という言葉は氏に対して最もふさわしいものである。」

「氏の文章は一つのリズムであると同時に一種の力である。氏の作品もまた一種の力である。氏の作品を読んで、ひしひしと胸に迫って来るある力を感じない人は恐らく一人もあるまい。その感じは爆裂弾を投げられた感じである。そうして、この感じは氏に接しているときにも起こる。氏はこの力で自己の病を征服し、世を征服しようとして居られる。だから、ある人は氏を評して爆弾の如く痛快な人だといった。又ある人は氏を評してとても愉快な語人だといった。まったく氏と語って痛快を覚える人はあるまい、そうしてその後に何物かを氏から投げ込まれて居ることを気づかぬ人はあるまいと思う。」

「氏のこの性質は、氏が信州人であるということを知れば一層よく理解することが出来ると思う。氏に接するとき私はいつも、雪に覆われて剣のように尖っている信州の連山を思い起こす。」

「氏の空想の豊富なことは嘗て私はナイヤガラ瀑布の水量にたとえたことがあるが、その豊富な空想を自由自在に駆使して、而も手に入った木曽を中心とし、今度名古屋新聞に連載小説を発表さるることになった。こう言っただけでももうその作品が如何に面白いものでかは察せられるであろうと思う。『木曽風俗聞書薬草採』の予告が一度名古屋新聞にあらわれるや、国枝氏の崇拝者たちから毎日幾通となく編集局へ書状を寄せて、喜びを申し出たということであるがまことに尤もな事。諸君!待ちたまえ今暫くの辛抱だ。書きたいと思うことの十分の一も書かぬうちに、はや予定のページは尽きた。何だかとりとめのないことを書いてしまったが、これも、まさに発表さるべき作品にはや魅せられた証拠だと思っていただきたい。」

 

 

 

 

衝撃の健全・不健全派批評論文 平林初之輔

探偵小説壇の諸傾向 平林初之輔 新青年 第七巻第三号新春増刊号・探偵小説傑作集 1926(大正15)年2月号

   一

『カラマーゾフ兄弟』のような小説を読むと、誰でも少なくとも二日や三日は、作品の世界からぬけきれないで、平凡極まる自分の生活がいやになるに相違ない。ロシアの近代思想を縦横に解剖してゆく検事の論文を読みふけっている最中に、「どうだい近頃は」というような、この上ないコンベンショナル[型にはまった]な話し方をしかけるものがあったら、その瞬間には、相手の男がどんなに大学者であっても、まるで煉瓦のように無知な人間と映ずるに相違ない。

 いわんやそれを読んだ人が不幸にして、小説家であった場合には、どんなに身の程を知らぬ人が、どれ程きびしい督促を受けている場合にも、二日や三日はペンをとる勇気を失うだろうかと思う。「自分の書こうと思っていたことをみんな書いてしまわれた」という気がするに相違ない。自分をかえりみると、ごみのような不必要な、理由の薄弱な存在と映ずるに相違ない。

 ピーストンを読んでペンが委縮する人は、ひとえに甲賀三郎氏ばかりでなく、これは多少発達した感性をもった(少なくとも探偵小説を書いてみようと思う程度に発達した感性をもった)すべての生物に共通の現象であろうと考える。

『新青年』が、ある期間の間、しかもそうとう長期にわたる間、海外の傑作ばかりを紹介することにつとめてきたのは、意識的であるか偶然であるかは(編集者に失礼ながら)わからぬが、探偵小説を志す人の陥ったであろうイージーゴーイング[無頓着]な心持ちを抑えつけてしまう効果をもっていたことは争われない。あれだけの海外の探偵小説を紹介する労力が省かれていたならば、日本の探偵小説は、きっと現在よりも遥かに低いレベルから出発して見苦しい発達を遂げていたに相違ない。この点で、日本の探偵小説は、ほとんど最近にようやく勃興の機運を示してきたにもかかわらず、かなりフェーヴォラブル[好意的]な要約の下に生ぶ声を上げたとものと言うべきであろう。

しかし、何事にも相反する二面がある、危険を予感しているものが必ず危険を最も巧みに避けるものとは限っておらず、衛生のことばかり気にしすぎると、かえってへまを演ずるものがある。ムイシュキン公爵は、支那製の高価な花瓶をこわしはしないか、こわしはしないかと気にしたためにそれをかえってこわしてしまったのである。平気でいたら決して、こわす気遣いはなかったであろう。

 それと同じことが探偵小説についてもいえるように思う。あまりにも立派な作品を見たあとでは、作者がかたくなって、常にせい一ぱいのものをかいて読者をあっと言わせてやろうという気で張りつめて、その結果、疑って思案にあまるような作品ができあがる、それから殺人や、犯罪では、どうも芸術的ではない、もっと奇抜な、幻想の世界を織り出して見せるのではなければ、探偵小説が芸術の中で占める椅子が失われるというような考えから、かえって、造花のような力のない作品がうまれることにもなる。

 これらの傾向は、探偵小説の行き詰り、早老を予感せしめる微候の一つではないかと私は考える。限りあるエネルギーは最も経済的に、効果的に使用せねばならぬ。鳩を殺すには敵弾で足りるとしたら、十二吋砲をすえつける必要はない。東京から大阪へ行くのを目的とする旅行者は、東海道線を利用すればよいのであって、わざわざ横浜から船に乗りかえてアメリカ経由で地球を一周してゆく必要はないのである。私はまず第一に探偵小説家諸氏に少しの余裕をもとめる。

   二

 江戸川乱歩氏は、一作ごとに頭の禿げるようなことを考え出す人であると誰かが評したが、実際、思いつきが奇抜で、他人の追随を許さぬところは氏の作品は天下一品である。『心理試験』の中におさめられたもの以後では、私は、「屋根裏の散歩者」「一人二役」「踊る一寸法師」などを読んだに過ぎない。その中で、着想に全くの独創を示しているものは、何といっても「屋根裏の散歩者」である。なんな空想をえがいた人間は、恐らく日本に他になかろうと思う。

 しかも、氏が、『文芸春秋』で自白しているところによるとあれは書くまえにには、じっさい自分の家の天井裏へ上がって実演したということである。フローベルが『サランボオ』をかくのにアフリカの地をふんで実地したというような話は他にもたんさん例があるであろうが、天井へ上がって、板のすきまから、下の部屋をのぞいた人は恐らく世界に例がなかろうと思う。

「一人二役」や「踊る一寸法師」などは、着想においては、それほど奇抜ではなく、誰でも思いつける程度のものであるが、それをあれだけ念入りに、巧みに、書きこなす腕は、大抵の人には期待できないことである。「一人二役」などは、随分ふざけたもので、最後のさげも見えすいているし、書いてあることは不自然そのものであるが、それをよくあれだけ精巧に途中で投げ出さず組み立てていったものだと、その点にはほとほと感心する。

「踊る一寸法師」は「白昼夢」などとともに、ポー張りの怪奇談であって、やはり骨を折ったものであり、恐らくグロテスクな一種の芸術的アトモスフィア[情調、趣き]を浮かび上がらせている点では、氏の作品の中でも最も傑れたものかもしれぬが、読者は氏の作品に、今までは、ほとんどインポッシブル[(不可能な、信じがたい)]な何者かを要求するくせがついてしまっている。そのため「踊る一寸法師」のような、疑った、丹念にみがきをいれた作品に対しても、これきりかというような軽い不満をさえ感じはじまるのである。

 氏のように、落下物体が獲得するような加速度をもって、尖鋭、怪奇、意外、等の最高頂をめがけて突進してきた作家は、一度、方向転換して、余裕のある姿勢をとりなおさぬと抜きさしならぬキュ・ド・サック[(cul de sac=窮地、行詰まり、袋小路)]へ頭を突っこんで動きがとれなくなりはしないかと考えられる。空気の振動の回数が増すと、一定程度までは高音に聞こえるが、一定限度を越すと人間の聴覚には音としてきこえなくなるという、氏の作品は、早晩そうした限度につきあたりはしないかといらざる取越苦労もしてみるのである。

   三

 小酒井不木氏の作品は、私は、本誌[『新青年』]に出たものは全部読んであるが、本誌以外に発表されたものは一つも読んでいない、しかしきくところによると、本誌に発表されたものは、氏の最も会心の作だということである。してみれば本誌に出た作品だけをもとにして、探偵小説家としての氏を論ずるには、氏の欠点を見逃すおそれはあっても、氏の長所を見逃すことにはなるまいと思う。

 氏の作品は、ほとんど正確に、発表の月と比例して、あとから出たもの程よくなっているように私は思う。したがっていちばん私が感心して読んだには、新年号に出た『恋愛曲線』である。人間をも含む動物の器官が、適当なコンディションさえ与えば、身体中の本来の位置から取りはずしても、機能を営みつづけてゆくということは、他の書物でも読んだことがある。

 この実験生理学の心理の上に、氏は驚くべきロマンスを組みたてた。失恋した女の心臓へ失恋した男の血液を送って負と負との積は正になるという理屈から、この組み合わせの心臓の鼓膊が「恋愛曲線」を描くというもっともらしい結論をつくりあげ、それを、共通の「恋仇」の結婚の日の贈り物としようとする傾向です。しかしそれは、恋を失った二人の生命をもってつくられる贈り物なのである。

「しかし僕は、その曲線を現象することはできない。何となれば、僕はこのまま、僕の全身の血液を注ぎ尽くすつもりだから」というところまで読むと、我知らずはっとさせられる。それは「手術」の胎児を食う場面や、「痴人の復讐」の最後のところが、一種のエクスタシーの境地に達しており、したがって、以上の三つの中で、この作を最もすぐれたものたらしめているように私は思う。

「虚実の証拠」「遺伝」等の価値については世評半ばしていたようであるが、私は、ネガティブの一票を投じる。

題材や表現のしかたなどはちがっているが氏の小説にも、江戸川乱歩氏の小説にと同じ危機が迫ってきそうに私は思われる。それは精神病理的興味の追求にあまりにも急である点である。

 横溝正史氏の作品は、新年号の「広告人形」だけしか正確に記憶しているものはない。

 この作品は、江戸川乱歩氏の作品である一面と実によく似たところをもっている。この作品に「江戸川乱歩」と署名があっても、ある点まで私はわからずに読んだかもしれない。しかもこの作に代表されている江戸川氏の一面は、良い一面であると言えぬ。宇野浩二張りのぬらくらした。冗舌そのものの文章と、場末の寄席でみるような、デカダンの空気であり、それはまさに、江戸川氏からとりのぞいてもらいたいと思うものである。ただし、横溝氏の作には、この他これと異なった味の出ているよいものがあったように、ぼんやり記憶している。

 城昌幸氏の作品は気分小説といえよう。題は忘れたが、古本屋から日記帳を買って来る話、「意識せる錯覚」等は、いずれ、いわゆる芸術的小品といえる。しかしそれはあまりにも「芸術的」でありすぎる。作者の目的とする効果があまりにもデリケートにすぎて、しっかりした客観的な落ちつきを欠いている。時にはぜひ必要な筆触が作者の主観の中で独り合点されて省略されているような場合がある。どこかに鋭いものをもっていそうな感じがするが、未成品である。踏査未了の鉱脈のようなもので、はたしてそれが金脈であるか銅脈であるかは今のところ私にはわかりかねる。もっと描写に確実性を与えることが急務であろう。

   四

 以上の四人は、少なくとも最近においては、精神病理的、変態心理的側面の検索に、より多く、もしくは全部の興味を集中し尋常な現実の世界からロマンスを探るだけでは満足しないで、まず尋常な世界を構成して、そこに物語を発展させようとするようなところが見える。そこで、この怪奇な、ポッシブル[わずかでも可能な]ではあってもプロバブル[まず確実な]でない世界の構成が、少しでも拙劣だと、作品の存在理由がよほど希薄になる。しかし、人間の心理には不健全な病的なものを喜ぶ傾向は、ほとんどインネート[生来]なものだから探偵小説にかような一派が生ずることは自然なことでもあろう。

 この不健全に対して、健全派ともおうべきものが対立して考えられる。

 正木不如丘の作品のごときはその代表的なものである。氏の筆になったものは、いつか『朝日新聞』か何かに連載されたものと、今度の「赤いレッテル」だけである。氏は、まずスタイリストである。はじめて氏の文章を読んだ時に私は、夏目漱石のもつスタイルを連想した。こういうスタイルは、学者と芸術家との両面をそなえた人間に特有なもので、その特長は、一つ一つの概念がはっきりして使用されているということである。ぼかしや円みが全くない。非連続的であり、多角的である。円みを描くのにコンパスを用いないで、どこまでも多角形の角の数を増していって円に近づこうとするといった風である。

 しかし、その当時の印象と「赤いレッテル」から受けた印象とはだいぶ相違している。「赤いレッテル」のスタイルには、もう角がなくなっている。しかし、読んで明るい感じがする点は同じだ。精神病理的作品を読んだあとでこれを読むと重苦しい酒場の中から、せいせいした戸外へでたような感じがする。あっさりした、それでいてかなり厚味のある筆蝕で叙述をすすめて最後の場面で軽いウィットでしまくくってあるところは余裕のある書きぶりである。もう少し、蒸留し、圧縮して陰影をくっきりさしたら、軽いながらも上乗の短編になったことと思う。

甲賀三郎氏の名作という評判ある「琥珀のパイプ」は私は残念ながら読んでいない。しかし氏の作品では「大下君の推理」「空家の怪」「ニッケルの文鎮」その他忘れたが幽霊のことを書いた怪談めいたもの、乞食が出てくる話で、最後のシーンが丸ビルか何かになっている話などを、ちょっと回想しただけでもおぼえている。氏はいろいろな材料を色々な手法で書きこなす人であるが、アブノーマリティ・ハンターというような一面だけではないように思われるから、前の分類に従えば健全派に属すべきであろう。いちばん印象の新しい「ニッケルの文鎮」についていうならば、はじめからしまいまで、あの面倒くさい若い女の言葉で、ひどくこみ入った事件をさばいていく手際には感心した。

 しかし、それにもかかわらず、この作品の内容はあまりにも複雑すぎる、これはあの三倍位の長さに引き延ばして、もっとディテール[細部・細目]を書き加うべきであったと思う。あれだけの長さでは、筋だけ追うことしかできない効果が半減されている。多芸多才、能文達筆の氏にとっては、堂々たる本格探偵小説の長編に精力を集中するのがいちばん適しているのではないかと思う、「ニッケルの文鎮」の中のラジオ小僧と私立探偵との知恵くらべの一くさりごときはその片鱗をみせたものといえるであろう。

その他の諸氏についても言いたいことがあるが、疲れてしまったから、次の機会にゆずることにしたい。

最後に一言希望を述べておく。

 いったい私は、自分ではかなり不健全な、病的な趣味を多量にもっているものがあり、かつこれは程度の差こそあれ、すべての人間に共通の現象であると思うのであるが、かかる趣味に対するアンチトード[反発]もまたすべての人に共通して存在するであろうと思う。ところが現代の日本の探偵小説はあまりに不健全趣味に片寄りすぎているように思う。あまりに、人工的な、怪奇な、不自然な世界を負いすぎているように思う。かような傾向は、退廃的な特徴である。そしていかなる芸術からも避くべきである。

蒸かえるようなペンキ画の道具立て、白粉の女、安葉巻の煙、カクテルの複雑な味ーそういう雰囲気もたしかに一つの魅力をもっているではあろう。しかし、そういう雰囲気の中に長くつかっていると、外へ出て原いっぱい酸素を吸いたい欲望が誰にでも起こってくるであろう。それと同じ意味において、私は健全派の探偵小説の今一段の発展を希望するのである。

                                  (出典:青空文庫)