山田耕筰の世界

蟹江町小学校校歌(各小学校共通)

 サトウハチロー作詞 山田耕筰作曲

 

1 雀は屋根から からすは木から
  毎朝カバンを ながめてる
  春にはつばめが 秋にはもずが
  帽子のきしょうを のぞいてる
  小鳥よおききよ 教えてあげよ
  明るい学校 蟹江小学校

 

2 ずらりと並んだ ガラスのおまど
  中からきこえる もれてくる
  毎日毎日 かわいい声で
  いろはにほへとや あいうえお
  だれもが一度は 覚えることば
  明るい学校 蟹江小学校

 

3 草の芽 草の葉 すくすく育つ
  負けずに みんなも伸びていく
  木枯ふくころ 草の葉かれる
  みんなは枯れずに またのびる
  元気な友達 やさしい先生
  明るい学校 蟹江小学校

  

4 一二の三四は 算数 体操
  ピアノで覚える 歌の数
  外でも勉強 とんぼに ちょうちょ
  たんぽぽ ひまわり 菊の花
  くわしく調べて 互いに話す
  明るい学校 蟹江小学校

  

5 春夏秋冬 風ふく朝も
  雨でも雪でも みぞれでも
  あの子も この子も こんちは おはよう
  えらいぞ はげめと鐘が鳴る
  雀がみている からすがのぞく
  明るい学校 蟹江小学校

 

*ここでは蟹江小学校名を入れましたが、各小学校名が入ります。

蟹江町小学校校歌制定の経緯

昭和27年当時蟹江町内の小学校には校歌が無く「新しい時代に即した子どもたちの精神的な支えが欲しい」とのことで校歌作りを企画する。当初は校歌の作詞で全国に知られていた白鳥省吾に作詞を頼み、文語体の歌詞が出来上がる。作曲については、「赤とんぼ」などで知られる山田耕筰氏が、どうやら身内が蟹江の出身らしいとの情報があり、当時教育委員を務めていた山田清三氏が交渉にあたることとなった。山田氏は、白鳥氏の詩を携えて、東京の耕筰氏を訪ねるため上京、氏の手記では「先生は大作曲家。当たって砕けてみよう」と綴ったとされている。二人は初対面だったが、耕筰氏は、これも蟹江に縁のあることと作曲を承諾、山田氏が白鳥氏の歌詞を見せると、耕筰氏は「小学校校歌は子どもたちが喜んで歌う口語体にしなさい」とアドバイス、困惑する山田氏に対して作詞家のサトウハチロー氏を薦めて紹介状を書いてくれたとされている。山田氏は早速、耕筰の紹介状をもってハチロー氏を訪ねると、当時病身だったハチロー氏は「耕筰先生の作曲ならば」と、その場で山田氏に蟹江町や学校の様子を尋ねたといわれている。昭和28年11月耕筰夫妻を迎え蟹江小学校講堂内で校歌発表会が開かれた。ほのぼのとした童謡を思わせる曲はその後、町内の他の四小学校も相次いで校歌に採用、歌詞も校名の箇所だけ替えて歌われている。耕筰氏が山田氏に送った手紙には、校歌について「ねらいどおりとても良い曲となった」、「ふしも易しくとても明るい曲ですから蟹江の子どもらも喜んで唄ってくれると信じます」と自信をのぞかせたとされている。耕筰氏は、町からの謝礼金を全額住民へ寄付し、代わりに当時、町で盛んに栽培されていたイチジクを受け取ったとされている。昭和33年5月12日夕刻、関西演奏旅行の際、五年ぶりに蟹江を訪問する。「いで湯開き」をしたばかりの水郷蟹江温泉が完成したことを山田氏から聞いて、休養のため同温泉で一泊、翌朝13日忙しい身をさいて、かつて自分の作曲した蟹江小の校歌が、どんなに歌われているか知りたいために蟹江小学校を訪問した。耕筰氏は校庭で元気に歌う校歌を聴きながら「とても上手になった」と何度も首を振りながら満足げにうっとりと聞き入っていたとされている。