水郷楽人が住む蟹江町歴史・文化についての私本版の一押し情報ですが、いろいろと紹介したいと思います。蟹江町の観光にもご利用いただけると有難いです。各ページはblog版にリンクしたものが多いです。一部不具合のページがありますが、順次修正しながら更新していく予定です。
水郷の里、蟹江地名の起こりは、定かではありませんが、河口部にカニが群生していたところから「蟹江」という地名になったとの説を筆頭に諸説あります。カニは一般に水辺に生息し、ある意味で常に水が入る土地で群生している土地から「蟹江」と名付けられたのではないかと思われます。そこでは、「カニ」とは水害の危険があるところとの意味を兼ね合わせているのかもしれません。蟹江が文献上最初に登場するのは『水野家文書』にある建保3年の「祐信譲状」であるとされています。ただ、大字須成にある龍照院の十一面観音(国重文)は、胎内墨書銘により寿永元年に造像された仏像で、同寺が「蟹江山」の称号を持ち合わせていることから「水野家文書」よりも時代を遡ることができると思われます。鎌倉時代、円覚寺所有の『尾張国冨田荘絵図』によれば、荘内を蛇行する河川(庄内川水系)に沿った下流部に「蟹江」「今村」など現存する字名が記載されています。
中世以降は、蟹江本町地区(現城地区)周辺に蟹江城が築かれました。特に戦国時代の蟹江城は、伊勢湾海上交通や長島一向一揆拠点に対する要衝地として重要な役割を果たし数度の攻防戦が繰り広げられています。特に天正10年、織田信長死後、その後継者を巡って戦われた天正12年の「小牧長久手の戦い」の際には、大規模な戦闘が蟹江城一帯で繰り広げられました。
江戸時代は蟹江川河口部分に港が設置され、船運を利用できる蟹江本町地区は商業・漁業の経済活動の中心として津島に続く海部地域第2の都市として栄えました。『尾張名所図会』の「蟹江川」の項にもその賑やかさが描かれ、文中には「蟹江川デハ漁商ノ船、ココニ湊ヒ米穀・野菜モ朝夕ニ交易シテ」と記述されています。また尾張藩『郡村徇行記』では、「舟入川(蟹江川)ヘ処々ヨリ商船入津アリ、勢州四日市ヨリ茶ヲ運漕シ、知多郡多屋村アタリヨリ薪を積来リ、マタ、岐阜長良辺ヨリハ灰ヲ積来レリ・・・」と伊勢湾海上交通の要所として百石船が出入りし栄えた当時の蟹江本町周辺の様子が述べられています。なお、この時代、蟹江本町と門前町の須成には、定期市の六斎市が開設されていました。
水郷蟹江に関する歴史・地域情報などに関しては、以下のページに分類し案内しています。よろしければ各画像をクリックの上ご覧ください。
写真は蟹江城址公園です。戦国時代に蟹江城では大規模な合戦が行われました。ここでは蟹江町で起こった歴史的な出来事や町内の史跡、神社、寺院、地名の由来などを紹介します。
海部地域第2の商業都市として発展したきた蟹江町、名古屋のベットタウンとしてマンションや新興住宅が建設され都市化が進行していますが、まだまだ歩くと昔ながらの懐かしい街並みが残されています。そこから一歩足を伸ばすと長閑な田園風景が拡がり、水郷らしい景観が見受けられます。ここでは、町内の各地区を歩いた記録を紹介してみたいと思います。
蟹江町の夏の大祭、須成祭です。国の重要無形民俗文化財に指定され、2016年12月にはユネスコの無形文化遺産に登録された約400年ほどの歴史を有する祭です。毎年8月第1土曜日に宵祭、翌日に朝祭が執り行われます。写真は、宵祭の巻藁船が御葭橋を通過しようとするところ、御葭橋は、年に2日祭船が通過する際に跳ね上がる祭りのために作られた可動橋です。ここでは須成祭を始めとする蟹江町内の祭見物に関する記録を紹介したいと思います。
尾張平野部に広がる田園風景。田圃に囲まれている畑が各地に点在しています。これは島畑と言われる尾張平野独特の伝統的農業景観です。蟹江町では「島畑」とは言わずに「刎畑」と呼ばれて地域名にも残されています。MY畑「アグリ水郷」周辺には、まだまだ島畑が残されています。その歴史や季節の移り変わりを紹介していきたいと思います。2015年11月からは、島畑を1面お借りすることになって、自ら耕作に挑戦することになりました。逐次島畑での栽培の様子を紹介していきたいと思います。
蟹江名物「いな饅頭」です。蟹江町は水郷の里、かつて舟入地区には漁港や魚市場もあり豊かな魚料理が存在しています。そして伊吹颪など自然の力をうまく使った食材も有り、郷土料理などを紹介していきたいと思います。
写真は蟹江町が輩出した探偵小説(現推理小説)家の小酒井不木です。蟹江町は不木の他、新選組隊士佐野七五三之助、昭和の金融界風雲児神田鐳蔵、建築家の黒川紀章など多くの人材を輩出した地でもあります。蟹江人物編はこちらからご覧ください。
近鉄富吉駅を通過する特急「アーバンライナー」です。町内の街道や鉄道などの歴史を紹介しています。