毎年お盆近くになると蟹江町の店頭には白イチジクが並びます。明治以降、蟹江町は白イチジクの特産地として有名でした。今でも市場では高値で取り引きされているようですが、その栄枯盛衰の物語です。
毎年8月のお盆前後から10月中旬にかけて白イチジクが旬の季節を迎えます。かつての蟹江は白イチジクの一大産地として栄えました。これは蟹江白イチジク栄枯盛衰の物語です。
現在スーパーなどで販売されている西洋イチジクの皮が赤いのに対し、在来種である白イチジクは皮が白色を帯びた緑色していることから名付けられたものです。西洋イチジクよりも一回りほどサイズは小さいですが、甘味が強いのが特徴で、現在でも人気のある果物として高級料亭などで旬のデザートとして出されるほどです。
蟹江弁では白イチジクのことを「コウライガキ」と言います。これは江戸時代の書物「和漢三才図会」の「唐柿」が訛ったもの、イチジク自体が秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮から伝わったことから朝鮮の古名「高麗の柿」が訛ったもの、または白イチジクの品種「蓬莱柿(ホウライシ)」が訛ったものなど諸説がありますが、定かではありません。
由来はさておき、物語を進めたいと思います。白イチジクは水郷地帯の「塩気を含む」低湿地を好む性質から蟹江町及びその村々になかば自生するにまかされていました。今ではスーパーなどでパック入りが秋口から晩秋あたりにかけてイチジクが並んでいますが、かつての蟹江では売られていませんでした。大産地である故の「イチジクは買ってまで食べるものでは無い」と受け止められていたのです。
これは家の畑にイチジクが植えられているので近所の農家の方に貰えばよかったのです。それほどの生産地であったわけです。冷蔵庫の無かった昔は、この白イチジクを一番美味しいとされる朝にもぎたての物を食べるのがびったりした舌ざわりがあったようです。
そのイチジクが、何故に蟹江特産で名古屋へと出荷されたのか、そのルーツを探ろうと思います。昭和40年代に編纂された「蟹江町史」によれば、明治30年代に蟹江新町の佐治要助氏が畑に放植されていたイチジクの処分に困り、青物の出荷のついでに当時、発展目覚ましい名古屋の食材を一手に支えていた西枇杷島青果市場へ試しに出荷したところ、予想以上に好評であったことが契機となって順次栽培されるようになったとのことです。更に大正11年(1922)鎌島新田の木村吉輔氏が油を果実に塗った促成法を導入するなど、商品化のための技術開発・改良も行われ、大正末から昭和10年頃までにかけて最盛期を迎えました。当時蟹江町でもイチジク畑が12haほどあったとされています。
旬を迎える9月になると、朝の暗いうちから起きて畑に向かい、イチジクの収穫を始めました。現在、横へ枝を長く伸ばす「矮木式栽培」では無く、上へと伸ばし放題の木ですから丸太で足場を組んで高木に登り、ガサゴソ探して腰に結んだ籠に実を入れていたようです。少し先が星状に開いた青筋の大きなものが上物でした。これは市場へと出荷され、ほとんど口に入らなかったようです。地元の物は、「メーツブリ(口が開いていないもの)」か、雨で口が開き過ぎて市場に出せないものを専ら食べていたようです。上等のものは町内のあちこちの仲買人の手で集められ、名古屋市場へと運ばれました。名古屋へは蒸気機関車に牽引された一両目の貨車に、イチジクの行商人が乗り込んだ「イチジク列車」が運行されるほどでした。名古屋市場のみならず関西線で大阪市場にも出荷されていました。イチジクの産地として栄えた様子を故早瀬順造氏が書き残した一文から紹介したいと思います。「上等のものは町あちこちの仲買人の手で集められ、名古屋市方面へ運ばれていく。私の知っている風景は朝登校時に安楽寺の境内で、今川東の渡辺さんが農家の方から買い付けていたことだ。何しろイチジクは葉が大きいのでリンゴみたいにはっきりと実が見分けにくい。朝熟した実を皆採った筈でも採り残しされているやつがある。これをメノコシ(見残し)と言って、その下を通る人が失敬していくこともある大らかさだ。所有者がいても『ヒトツモラッテゲヤアモ』『エエ、クッテチョ』でどちらも平気なもの。ああそれが今では世知辛い。一パックでいくらで買わなきゃならない・・・当たり前の話だが」。とあり、当時の白イチジクの取引風景が述べられ、白イチジクの大産地蟹江では「イチジクは買ってまで食べるものではない」が普通だったようです。
太平洋戦争から戦後にかけては、食糧増産のためイチジクは伐採され、米やサツマイモ畑に変わり、一時出荷が中断される困難な時代もありました。戦後暫くして白イチジク栽培が復活しましたが、次第に三河や知多半島での大規模栽培に押され、昭和34年伊勢湾台風を契機に土壌の変化や都市化の進行による耕地面積の減少など、蟹江のイチジク栽培は衰退の方向へと向かいました。
しかしながら、「蟹江の白イチジク」としての評判は依然として高く、高級料亭や果物専門店からの引き合いも多く、令和の世まで細々と栽培出荷は続けられてます。
箱入りのものは蟹江町のマーク(徽章)が印刷されたもので出荷されています。10年程前から地元の商工会を始めとする有志が「蟹江の白イチジク」を「町おこし」の素材として目を付けて関連の商品開発などを行い、再び白イチジクの人気が復活して栽培も増えているようです。