須成神社を始め、町内の神社を紹介します。
別名須成神社と云われますが、正式名は冨吉建速神社・八剱社と称する須成地区の鎮守様で、夏の大祭「須成祭」が執り行われることでも有名な神社です。本殿は向かって右側が冨吉建速神社で一間社流造檜皮葺、祭神は素盞鳴尊で天平5年に行基菩薩によって蟹江山常楽寺の鎮守として創建され、寿永元年木曽義仲によって再興されたと伝承されています。右側は八剱社で、三間社流見世棚造檜皮葺、祭神は草薙の神剣と熱田の五神(天照大神、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命、素盞鳴尊)を奉っています。特に冨吉建速神社は古くから「冨吉天王」「牛頭天王」あるいは「須成天王」などと親しまれ、中世以降冨吉荘の総鎮守として尊崇を集めてきた歴史を有する神社でした。天文17年には織田信長が社殿を造営し、文禄年間には豊臣秀吉が疫病が流行したので、米銭を献じて疫病平癒を祈らせ、その後も年々米銭を寄進したとも伝えられています。神社の社紋が織田氏の「織田木瓜紋」、豊臣氏の「七五之桐紋」を使用しているのは、この両人との関わりによるものと伝えられています。(もっとも、これには異説があって、八坂神社や津島神社など牛頭信仰系の社紋が木瓜、皇室紋の一つに七五之桐紋が使用されているので、あまり意味の無い説と云われています。歴史浪漫もあれば、隣接する龍照院の寺紋は、本山の智積院の桔梗紋を使用、これは明智光秀と同じ紋です)。江戸時代には、歴代尾張藩主の篤い保護を受けるなど由緒のある神社です。まお、両本殿は、形式手法とともに室町時代の建築様式の特徴をよく残し、前流れの美しい屋根の曲線を描き、特に八剱社本殿の蟇股(唐草文様)は桃山時代の推移を示すもので美術的にも優作であることなどから昭和28年国重要文化財に指定されています。また、境内その他の明治以降のものですが、「尾張造」という尾張国古の建築配置を残すなど資料的にも貴重な存在です。昭和51年、平成8・9年において、文化庁・愛知県及び蟹江町の支援を受けて、地域住民の篤い協力のもと両本殿の保存修理事業が実施されました。
永享年間北條時任の蟹江城築城の際、蟹江城の大手門に清洲から御園神明社を迎えて祀られたとされています。祭神は天照大神です。
天正12年蟹江合戦の際の兵火に遭い、すべてが灰燼と化し、焼失しました。江戸時代の元和5年11月に社殿を再興したとされています。元禄14年第4代尾張藩主徳川吉通の命により瑞垣と鳥居を再興、正徳4年には第6代藩主徳川継友の命により社殿を修復した際の棟札が残されています。
明治40年村社、大正14年郷社に列せられ、昭和44年拝殿の改築、社務所、斎館の新築を行い、現在に至っています。
神明社の大祭、蟹江祭が盛んであった江戸時代の享保2年当時の尾張藩主であった徳川継友が神明社の祭が盛んであると聞き名古屋城下に招待されたと伝わっています。現在、蟹江祭は毎年9月の最終土曜日・日曜日に神事や祈祷の後、屋形や神楽の巡行が行われています。
日吉神社は、江戸時代天和2年以前に創建されたと伝えられています。祭神は大山昨命で、または山王権現とも呼ばれています。この神社は、江戸時代を通して「山王社」であり、明治6年「村社日吉社」と改められました。これは山王社の祭神が山王権現で、神仏分離により国家神道では認められていないので「日吉神社」ととしました。更に神仏分離により、地区内の地蔵寺の鎮守神であった白山社を併置、同時に秋葉社も併置されました。日吉社の神使は猿であり、本殿に保存され魔除けの猿と云われています。平成6年に現在地に移転しました。
室町時代、永享年間北條八郎時満が蟹江城を築くにあたり神のご加護いただくため、神通力、自在力最大である龍神を守護神として鎌倉より勧請されたと伝えられています。祭神は富吉大龍神、側神は大松大神・弁財天です。黄金の井戸、銭洗いの池の浄水で銭を洗い蟹江城の築城資金にしたとされ、商売繁盛の神様として厚い信仰を受けています。天正の合戦の後、龍神は城の大手海門寺の堀であった大池の主となって鎮まっています。現在の建物は、昭和39年に大池を埋め立てることとなり、富吉神社御祭神として祀り、建てられたものです。
神社由緒碑には、「もうかるとは 信じるものと掛けてもうかる 神を信じ仏を信ずる者に授かったものが儲かったのである」と記載されています。境内には、蟹江城歴代城主の菩提を弔うための供養塔があります。