吉川英治の世界

吉川英治文学碑建碑の経過

当時、青梅に疎開生活をしていた文豪吉川英治は、中央公論社編集長を勤めた佐藤観次郎氏(後の衆議院議員)の紹介で昭和17・18年頃から戦後の一時期にかけ蟹江を訪れて蟹江地方の有識者と親交を結んでいる。この辺りは海抜0メートルの低湿地地帯が拡がり、網のように走る水路を小舟が行きかう水郷情緒が豊かな地域で、遥か西には養老の山々、北には伊吹山、北東には御岳山が見え、この景観を「関東であれば潮来の如し」と述べ絶賛、後に蟹江の水郷景観を「東海の潮来」と称するきっかけとなったと云われている。ある夜、蟹江川堤防を散策、佐屋川との合流地点(当時は蟹江川に流れていました)の堤防沿いにあった見張り小屋(密漁監視小屋)の畳部屋に入り、月を眺めながら読んだとされるのが「佐屋川の 土手もみちかし 月こよひ」の句だと云われている。因みに佐屋川河畔への文学碑設置の由来は、黒川廣治氏(黒川巳喜氏父)が、英治氏が、この地に訪れ句を詠んだことにより句碑建立の準備に取り掛かることに始まったが、英治氏自身が、文学碑建立自体を好まず、唯一、著作『新平家物語』に所縁のある音戸の瀬戸のみにしか句碑設置を許可していないこともあり、あまり捗らなかった。その後、廣治氏が昭和27年11月23日に逝去し、この話は立ち消えとなったとされている。しかし、昭和37年英治氏逝去を機に、当時交流のあった有志4名(佐藤観次郎、川瀬佐太郎、山田平左衛門、黒川巳喜)が廣治氏の遺志を受け継いで遺族と交渉、この句を詠んだ佐屋川尻と蟹江川が出会う堤防沿いに建碑することを決定し、昭和39年4月19日句碑が完成、建碑式を行った。来賓には英治氏未亡人文子氏、弟晋氏、杉本健吉画伯が招かれた。賛文碑は井上友一郎によるものであるが、当初は、英治とともに蟹江に訪れていた尾崎士郎が務める予定であったが、同氏が死去したため井上氏による碑銘になったとの経緯が刻まれている。