不木全集出版関係資料

昭和4年4月3日付け 改造社(高平始)書簡 

拝啓  

 この度は、あまりに突然の事にてお悔やみ申し上げる言葉も御座いません。

 過ぐる二月九日、次回配本の世界大衆文学全集の原稿を頂戴いたし、同時におはがきでいろいろご指示下さいました。それから幾日も経たないのに、今はお話しを承る事が出来なくなりました。

 これより悲しい変わりかたが御座いませうか。奥様を初め皆々様のお力落としは嘸かしとお察し申し上げます。

 そのおはがきは今手許に御座います。私共の誤を訂しご親切に御教へ下さった文字を見るとどうしても逝くなりになられたとは思はれません。先生の集は五月には出版したいと思って居りますが、全集等のお企てがおありでございますれば同集を機縁として改造社から出版さして戴けば難有いと存じます。未だお取混み中こんな事を申し上げるのは存じますが、一応お願い申し上げて置きます。

 尚ほお話しがあれば御懇意に願って居った濱本(目下広島に参って居ります)なり私なりが参上いたしますから御遠慮なく御申付け下さるようお願ひ申し上げます。

 大きな悲しみの後のご健康についてお気をつけ遊はずようお願ひいたします。

  四月三日

      高 平 始       

 小酒井ひさゑ様

 

昭和4年4月22日付け 森下雨村書簡

 小酒井望様                    森下岩太郎

 ご丁重なお手紙をいただきました。

 お身体におさわりもなければよいがと、お案じ申していましたが、母上様はじめ皆様お変りもなくあらせられるさうで、何よりと存じ上げます。

 全集のことは江戸川君と相談をいたして話をすすめて居りますが、一存で決しかねる節もありますので、ご承知のとおり岡戸さんに来ていただくことに致しました。その上でしかとした事に決定いたしたいと存じ居ります。

 昨夜は父上の三七日に当たりますので東京の知友十五六人で心ばかりの追悼会を催しました。席上からその御しらせは致した筈で御座います。皆へは私から挨拶をいたし置きます故ご心配下さいませぬように、母上様にもよろしくお伝え下さい。此の上とも身体をお大切に、しっかりと勉強してください。

ご返事まで

    四月二十二日

 

昭和4年4月24日付け 江戸川乱歩書状

 拝啓

 昨日 岡戸君上京を機とし森下氏と熟議の結果全集出版には改造社を選ぶことに決断いたしました。条件は小生らの力以て出来る限り有利に取り運んだ積もりでございます。

 念のため最低発行額を定め、改造社より契約書を取りました。右契約書は両三日中岡戸君持参帰名の上委細御報告申し上げる筈です。

右一寸発行元確定の御報告のみ申し上げます。

 皆様によろしく御伝へくださいます様

                            匆々

 二十四日

     江戸川乱歩

  小酒井久枝様

 

昭和4年4月24日付け  岡戸武平書簡

 前文御免下さい。二十三日早朝無事到着致しました。同日江戸川さん並に森下さんのお骨折りで、全集は改造社に任すことに約束なり、出版契約書も手交されました。全部五百頁からー六百頁、四六版、八巻、最低一万部(全部で八万)=これより以下売れなくても印税は支配ふやうに約束されました。以上に売れる場合は勿論印税は一割として支払うことになっています。改造社支配人の言ではトテモ一冊一万部位ではソロバンが取れぬから少なくとも二万、それ以上にやるつもりであると、かなり大がかりでやられる口吻でありましたから、左様は含みください。

 契約書は二三日後に、小生一度帰名致すつもりでございますから、その節、お届け致します。

 その他のことはいづれご面接の上。

○第一巻は5月下旬発売で目下江戸川さんと編集中であります。

○世界大衆も来月か来々月あたり出るようでございます。

以上 要用まで  草々

 御尊父にくれぐれもよろしく御伝言下さい。

             岡戸武平 拝

     奥様

 

*上記資料のうち森村雨村書簡は個人蔵、その他については、蟹江町歴史民俗資料館所蔵資料

 

「探偵小説40年 小酒井不木」P135 江戸川乱歩著 沖積社 平成元年

「『不木全集』出版のことには、私が当たったのだが、同時に春陽堂と改造社から申し込みを受けて、少々弱った。春陽堂には従来小酒井氏の単行本を出した縁故があるのだけれど、伝統の地味な営業方針で、大部数出せるかどうかあやぶまれた。私としては遺族の印税収入のこともあり、出来るだけ大部数出版させたかった。ある人々は、そんなに大衆的にしないで、たとえ部数は少なくても高価な上品な本にしたほうがいいだろうといった。しかし、小酒井氏は探偵小説の大衆的進出を唱えて書きまくった人だ。専門の医学にしても、研究室にとじこもる趣味も、むろんあったけれども、その専門知識を通俗的にくだいて、広く大衆を救いたいという気持を持っていた人だ(例、「闘病術」)。その他の随筆にしても、決して高踏的な狭いものではなかった。そういう点から、私は大部数主義が故人の意志に反するものでないことを信じていた。それには春陽堂よりも派手な改造社の方が適当のように思われた。当時の改造社は大宣伝をして大いに売る最も有力な出版社であった。私の気持ちは改造社の方へ傾いていた。」