菜園で栽培してきた京野菜や愛知県から「あいちの伝統野菜」と選定された伝統野菜の内、特に尾張平野の伝統野菜(尾張野菜)を中心に紹介します。地元蟹江町で、かつて栽培されてきた蟹江「トマト」や蟹江「白いちじく」についても、併せて紹介させていただきます。
尾張平野とは濃尾平野のうち、愛知県西部(旧尾張国)木曽川から庄内川にわたる平野の通称名です。この一帯は、日本の中央部に位置する「中間地」として気候的にも恵まれ、土壌的にも水利的にも適した農業生産物の盛んな地域として尾張地方の経済力が豊かな要因となっていました。特に野菜(青物)栽培についは、江戸時代尾張藩の城下名古屋の経済的・文化的な発展とともに、そこに住む日常消費する野菜の供給が必要とされ、慶長19年に下小田井(現清須市西枇杷地区)に青物市が開設されるなど、名古屋城下の台所を預かってきました。写真は『尾張名所図会』に紹介されている下小田井にあった青物市場の様子を描いたものです。大消費地名古屋発展とともに次第に単なる生産余剰品を出荷するだけではなく、野菜品目ごとに商品化、特産化する傾向がみられ、盛んに野菜作りが行われました。ここでは前編として、越津ネギ・治郎丸ホウレンソウなどを紹介してみたいと思います。(画像をクリックするとblog関連記事前編に移動します。)
清須市春日地区にある宮重大根発祥の地です。宮重大根は、別名「尾張大根」と称され全国に名を知られた代表的な良質の青首大根です。この他、越津ネギ、治郎丸ホウレンソウ、方領大根などの野菜が栽培され、名古屋周辺の一宮、稲沢などの中核都市においても青物市場が開設されるなど、一層特化した産地の形成がみられるようになりました。ここでは尾張平野の伝統野菜後編として、宮重大根などを中心に紹介しています。(画像をクリックするとblog関連記事後編に移動します。)
蟹江町歴史民俗資料館学芸員時代に「あいちの伝統野菜」関連行政機関やJA・農家・保存会など産地・流通にかかわる方々、そして産地を支えた育種業者など各位に協力をいただき特別展「尾張平野の伝統野菜」を開催することができました。それ以来、愛知県を始めとする各地で栽培されている伝統野菜に関心を持つことができました。ここでは菜園で栽培した「あいちの伝統野菜(尾張野菜)」の紹介をさせていただきます。
越津ネギです。関西の葉ネギ(九条系)と関東の根深ネギ(千住系)の中間地である尾張平野で栽培されるネギで、葉部と根深部をともに食用できるのが特徴です。関東のネギが「1本ネギ」として分けつしないのに対して、関西の葉ネギの分けつ生があるので、品種的には九条系の仲間とされています。原産地は海部郡越津村(現津島市)とされ、江戸時代には尾張藩主への献上品として珍重されてきた品種です。水分が根深ネギよりも多く、葉や白根部分が柔らかいため、すき焼きを始めとする多くの料理に利用され、名古屋の郷土料理「鶏肉のひきずり」「ボラ雑炊」には欠くことのできなのが越津ネギです。根深ネギでみられる斜めに薄く切るのではなく、ぶつ切りにして食べられるのは、その柔らかさからくるものとされています。菜園では、陰干しした苗を8月に植え付け、9月下旬から土寄せと追肥を数回行い、11月中旬頃から収穫しています。
餅菜(愛知正月菜)です。尾張地方の正月の雑煮として利用されるため餅菜(正月菜)と云われ、関東の小松菜に近い葉菜です。現在では、葉色や日持ちの関係から小松菜のF1品種におされて一般市場には出荷されなくなっているようです。食感が小松菜よりも柔らかいのが特徴です。正月雑煮用として程よいサイズとして使用するには、10月中旬後半から下旬前半に種を蒔き、栽培するのが良いのですが、最近晩秋から初冬にかけての気温の変化が不安定で、なかなか良い具合のサイズで収穫できなくなっています。
治郎丸ホウレンソウです。稲沢市治郎丸地区が原産地とされ、明治初期、日本在来の品種と洋種品種「ホーランジャ」を交互に畝栽培し、自然交配させた一代交配雑種により誕生した品種です。昭和5年に「治郎丸」と命名され、種子を組合員に配布し、品質向上と規格化に成功し、昭和10年以降はホウレンソウ産地や育苗会社などにも種子販売するなど、尾張畑作地帯の代表的な野菜として稲沢周辺地帯は、ホウレンソウの一大産地となりました。この時期から氷詰めしたホウレンソウが全国の市場へと貨車で輸送されました。品種の特徴としては、切れ込みの多い葉で、根部の赤色が鮮やかで霜にあたると甘味が増し、特有の香りがあげられます。但しべと病に罹り易く、また旬の冬場には葉がロゼット状に展開するので規格化された市場では敬遠されるようになりました。また。昼間の時間が長くなると「とう立ち」し、茎が硬く商品にならない欠点から次第にF1品種に交代し、自家消費用として細々と栽培されています。菜園では、専ら秋冬栽培を行っています。9月下旬から10月上旬に種まきを行い、10月下旬から収穫しています。最近、10月中旬まで残暑が続き、高温と多湿を嫌うことから不作に見舞われることが多くなってきています。
砂子カボチャです。正式な品種名は「愛知縮緬南瓜」と云われています。尾張平野における南瓜栽培は古く、その中で萱津・土田・砂子・清須という品種が特に有名でした。砂子カボチャは明治時代末期頃、大治村(現大治町)の八神銀三郎・正造氏が甚目寺村(現あま市)萱津からカボチャの種子を入手して研究を進めた結果、美味しい南瓜を作り出すことに成功して、後に「砂子カボチャ」の名で有名になりました。特に大治町砂子地区や三本木地区で栽培されて名古屋市場に出荷されました。料亭や大相撲名古屋場所の際の贈答用として好評を博しましたが、現在は洋種南瓜に普及により細々と家庭菜園などで栽培されている程度のようです。15年ほど前に数年間栽培してみました。梅雨時に受粉時期が重なり、途中で落果する「雷カボチャ」の場合が多く、とても気難しい南瓜だと実感させられました。
かりもりです。尾張平野で古くから栽培されてきた漬物専用の堅瓜です。酒粕漬けや味噌漬けでいただくと特に美味しく、バリバリとする歯ごたえなど食感もあって、家庭菜園で栽培される方が多いようです。10年ほど前から砂子カボチャに代わって栽培を数年間行いました。親蔓と子蔓を摘芯し、孫蔓に実を付けさせるのが良いようです。一株から5~8個ほど多くの瓜が収穫できます。
大高菜です。名古屋市緑区大高地区が原産とされる漬菜で、野沢菜に近い香りがあるとされています。大高地方では、餅菜の代わりとして雑煮にも使用していたようです。菜園では15年前、2年程栽培していました。その後、京野菜「壬生菜」を栽培するようになりました。
尾張大蕪です。別名大治蕪、萱津蕪、長牧蕪とも云われて、あま市甚目寺・大治町周辺が原産地とされています。この蕪は、大阪「天王寺蕪」系の特徴があるとされています。江戸末期の文化文政の頃、渡辺長兵衛というものの研究により在来種の改良がはかられ、長兵衛蕪と称していた時代もあったと云われています。明治以降「尾張蕪」、「愛知蕪」と改称され、広く栽培されてきました。現在は、F1種の普及により、細々と家庭菜園で栽培される程度です。菜園でも当初から15年ほど前まで数年間栽培してきました。大蕪に育つのが早いのですが、中の「す」入りが、F1品種よりも早い感じです。現在は京野菜「聖護院蕪」を専ら栽培しています。
写真は早生冬瓜、あいちの伝統野菜に選定されているお野菜です。ここでは、菜園では栽培したことがありませんが、尾張平野で盛んに栽培されてきた伝統野菜を紹介しています。関心のある方は画像をクリックの上、ご入場ください。
ここではあいちの伝統野菜の他、菜園で栽培した京野菜などを紹介させていただきます。
聖護院かぶらです。京都を代表する伝統野菜(京野菜)の一つです。江戸時代の享保年間に近江国(現滋賀県)から京都へ持ち込まれた近江蕪が原種とされます。秋冬野菜として栽培され、千枚漬けや煮込み料理に重宝されています。ちなみに千枚漬けは天保年間に蕪を薄切りにして漬物にしたのが始まりとされています。菜園では尾張蕪の後継種として栽培しています。大型の蕪でいろんな料理に貴重な食材となっています。栽培は、わりと簡単なお野菜です。
壬生菜です。水菜とともに別名「京菜」とも云われている漬菜の一種で、1800年代に水菜の変種として京都壬生地区で栽培されたことから「壬生菜」と名付けられました。水菜よりも特有の辛味があって、浅漬けや千枚漬けの添え物の他、あえ物、炒め物に使うと良いお野菜です。栽培は乾燥に気を付ける以外に簡単ですが、アブラムシが媒介するウィルス病には注意が必要です。一霜当たったところから、一段と味が濃くなり、美味しくなります。
砂糖エンドウです。関西・東海地方で栽培されてきたエンドウです。サヤエンドウとスナップエンドウの中間的な性質を持ち、莢の中の豆が膨らんだ段階で収穫するとほのかな甘みがあることから名づけられています。店頭に流通しているサヤエンドウよりも小振りで、料亭などの汁物の具として利用されています。11月上旬くらいに育苗ポットに種まきを行い、年末に苗を畝に植え付け、4月中旬頃以降に収穫できます。栽培自体は簡単ですが、エンドウは、連作障害があり、同じ畝では、5年ほど栽培できません。そこのところが狭い家庭菜園栽培で悩みのあるところです。
河内一寸ソラマメです。古くから大阪府河内地方、富田林市周辺で栽培されてきた大型のソラマメ(おたふく豆)で、河内一寸と呼ばれるようになりました。実は大粒で青豆を塩茹で、莢付きで焼いたものをビールの相手としていただくと最高に美味しく感じます。この他炊き込みごはんなどでも美味しいです。10月下旬から11月上旬頃、種を育苗ポットに蒔き、年末に苗を畝に植え付け栽培していきます。マメ科野菜のわりに吸肥力が弱いので、他のマメ科野菜よりも肥料は大目に施します。収穫は5月上旬から下旬頃になります。春先にアブラムシが大発生し、病気に罹り、枯れてしまう場合があります。この畝全体で全滅という場合もあり、なかなか栽培が難しい野菜です。
丹波の黒豆です。丹波国(現京都府・兵庫県の一部)で栽培されてきた秋大豆に属する晩生品種の黒豆です。旧暦9月13日の豆名月に熟した豆を茹でてお供えしていました。大粒なので別名「ブドウ豆」とも云われています。枝豆の莢の表面に付いている毛茸が赤茶色の品種なので、一般の白毛の品種が消費者には外観上好まれますが、美味さでは格段に美味しく、グルメ漫画「美味しんぼ」でも取り上げられるほど見栄えよりも味が極上の枝豆として人気が高いです。菜園では吸肥力が強いので、単独の畝を作り上げずに、トマトやキュウリの畝に苗を植え付け、コンパニオンプランツを行ったり、菜園通路に「畦豆」代わりとして栽培しています。6月中旬から7月中旬くらいに種を育苗ポットに蒔き、本葉3枚程度で畝に植え付け、9月下旬から11月中旬に収穫、枝豆用として栽培しています。完熟させたものを乾燥、正月のお節料理の煮豆で使用しても美味しいです。
本紅蕪です。関西系の赤蕪で、同じ赤カブの飛騨赤蕪や温海蕪と比較すると、葉筋まで鮮やかな赤色になるのが特徴です。秋冬栽培で大蕪に仕上げ、専ら浅漬けや千枚漬けなど漬物用として使用します。菜園でも数年前まで栽培していたのですが、白蕪と比べて根が硬いので、現在は春の小蕪として栽培するだけです。
金時ニンジン、別名京ニンジンや大阪ニンジンとも云われている東洋系のニンジンです。西日本で古くから栽培されてきました。オレンジ色した西洋系の五寸ニンジンよりも鮮やかな鮮紅色が特徴、西洋系がカロテンを含むのに対して、金時ニンジンはトマトと同様のリコピンを多く含んでいます。主に煮物として使われます。加熱すると甘味が強く美味しいニンジンです。大根と一緒に「なます」にしても美味しいです。
かつて、蟹江町の特産品として「かにえトマト」がありました。愛知県では、他地方に先駆けて品種改良がおこなわれ「愛知ファースト」など、トマトの一大産地として有名な地域でした。「かにえトマト」は、昭和29年水田裏作として町内で半促成栽培として始まりました。特徴としては水田高畝栽培という方法で、稲を刈り取った後、人力でブロックを積み上げて高畝(田麦)を作り、ビニールハウスを作って3月上中旬に苗を植え付け、5月下旬から収穫するというものでした。この地は地下の水温が冬季でも20度以上で、加温・保温が可能だったことも栽培が盛んになった要因でもあります。しかし、高畝の間に水を引くことは栽培管理にすこぶる非能率で、長靴を履いて泥水の中をノソノソ歩くことから、誰と言うことなく、この栽培法を「ベトコン」栽培というようになりました。この栽培は、蟹江町西之森戸谷清氏により確立され、同地域に栽培が普及して「丸三近郊園芸組合」が結成され、計画的栽培と組合単位の出荷、販売が軌道に乗りましたが、昭和34年の伊勢湾台風の被害により、以後はほとんど消滅してしまいました。品種は、福寿(福寿2号?)を専ら栽培していたようです。
野菜ではありませんが、蟹江町特産物に「白いちじく」があります。地元では、無花果のことを古くから「こうらいがき」と呼んで親しんできました。低湿地を好む無花果は蟹江町周辺の村々に半ば自生するにまかされてきましたが、明治30年代に、蟹江新町の佐治要八氏が放植していた無花果の処分に困り、出荷のついでに枇杷島市場へ出したところ、予想以上に好評であったことから次第に栽培されるようになりました。大正11年油を果実の芯に塗っての促成法を導入するなど大正末から昭和10年頃までに最盛期を迎え、当時町内では無花果畑が12㌶程あったとされています。名古屋へは機関車に牽引された一両目の貨車に、無花果の行商が乗り込んだ「無花果列車」が運行されたとのことです。この他、関西線経由で大阪市場へも貨物列車で出荷されました。現在、都市化の進行など、栽培が減少していますが、今でも在来種「蓬莱柿」は「蟹江の白いちじく」として高値で取引されています。(画像をクリックすると別ページ「蟹江白イチジク物語」に移動します)。
写真は稲沢市治郎丸地区にある治郎丸ホウレンソウ記念碑です。あいちの伝統野菜や京野菜、なにわ野菜など菜園で栽培した伝統野菜について、2016年2月までの記録をblog版で紹介してしています。関心のある方は画像をクリックの上、ご覧くださいね。
我が菜園で収穫した治郎丸法蓮草です。ギザギザ剣葉と赤根が特徴のあいちの伝統野菜です。2014年からの新しい伝統野菜栽培記は、こちらのblog版をご覧くださいね。